喧嘩療法、それは名医のとっておきの治療法と心得よ
精神を病みかけていた。
姑との関係が最悪になっていたのだ。
結婚と同時に夫の両親と同居したのだが、想像以上に大変だった。
価値観がことごとく違うことからくる衝突。
こちらが若いんだから譲ればいいものを……譲れない。
こちらが若いんだからあちらを立てればいいものを……できない。
夫は夫でのらりくらり、どちらの味方につくわけでもなく傍観を決め込んでいる。
優しいできる嫁になることを諦めたあたしは姑と全面的に戦うことを決意したのだ。
が、敵もさるもの。
優しい姑の仮面をかなぐり捨てて鬼の仮面に付け替えた。
ことあるごとにぶつかり合い、言い合い、双方譲らずの生活が続いたのだ。
戦いに疲れてきて、気持ちが沈んできた。
夫が味方についてくれないその家の中では、あたしは完全アウェイ状態。
気持ちの安らぐ場所もなく、どんどん気力がなくなってきた。食欲もなくなって口数も減ってきた。
友人がそんなあたしの状態を心配して、診療内科医を紹介してくれた。
名医と評判で、とても忙しい人らしいが友人のつてでなんとか診察の予約を入れてもらえたのだ。
あたしは一縷の望みを託して診察を受ける事にした。
診察当日、早めに家を出たのものの事故による電車の遅延で予約時間に間に合いそうもない。病院に電話して、10分ほど遅れてしまうことを医師に伝えておいてもらう事にした。
病院に着くと医師が一人、診察室で待っていた。
「遅れてしまってすみません」と言いながら診察室に入った途端
「予約時間に遅れてくるとは何事ですか! 僕はね、とっても忙しいんですよ。この後もテレビ局での収録があるんです。今日もお友達の頼みで無理矢理診察の時間を入れたんですよ。それを遅れて待たせるとはどう言う事ですか!」
といきなり大声で捲し立てたのだ。
びっくりして言葉が出ない。
確かに遅れたのは申し訳なかった。が、そのことは看護師に伝えたはずなんだけど……。
恐る恐るそのことを医師に伝えると、黙り込んだ。どうやら医師には伝わっていなかったらしい。
医師の機嫌は治るのか? それともやっぱりまた怒鳴られるのか?
オドオドしながら医師の顔色を伺いつつ、黙って待つ事にした。
数分して、どうやら気を取り直したらしい医師があたしに質問を始めた。
「それで、どういうことで思い悩んでいるんですか?」
「あなたの家族構成は? 仕事は? 普段は何をしていますか?」
畳みかけるように次々と質問を浴びせて、早く答えろと言わんばかりにあたしの顔を覗き込む。
早く終わらせたい気持ち丸出し。
なんだか段々腹が立ってきた。
こんな人に話を聞いてもらいたくない。
あたしは心を病んで、自分ではどうしたらいいのかわからないから診てもらいたくてきたのに……。なんでいきなり怒鳴られなきゃならないのだ?
と思うと話す気が全くなくなって、ダンマリを決め込んだ。
自分がしている質問に応えようとしないあたしの態度を見て、またまた激昂する医師。
「あなたねえ、僕に診てもらいたくてきたんでしょ? 」
「そんな黙っていられちゃ診断できないでしょ。ちゃんと質問に答えてくださいよ。あと10分したら出なくちゃならないんですから」
「さっきも言ったけど、僕は忙しいんですよ」
「もういいです。もう先生には診てもらいたくなくなりました」
言っちゃった〜!
医師の顔はみるみるうちに紅くなり、口から唾を飛ばしながらまたまた怒鳴り散らした。
「あんたみたいな非常識な患者は見たことがない! 知り合いから頼まれたからこの忙しい中時間とったのにその態度はなんなんだ! 」
いきなり立ち上がると診察室の扉を開け放ち、さらに叫ぶ。
「もう、診察代なんかいらない。とにかくとっとと帰ってくれ。全く、この忙しいのにあんたみたいなひどい患者の相手をしている暇なんかないんだ。全く不愉快だ。僕をなんだと思ってるんだ〜!!」
売り言葉に買い言葉。
「あたしも、あんたみたいな威張り散らす医者になんて診てもらいたくないですね。
心療内科でしょ? 心に傷を持った人を診察してくれるんじゃないんですか? それを偉そうにして、気に入らないからって怒鳴り散らして、それが心療内科医のすることなんですか? 信じられない。どれだけ有名だかなんだか知らないけど、あんたみたいな人にかかったらさらに具合が悪くなりそうですよ〜!」
修羅場と化した診察室。
怒鳴り声を聞きつけてやってきた看護師もびっくりして固まったままだ。
「もういい〜、とにかくとっとと出ていけ!」
「言われなくたって出て行きますよ。こんなとこ二度ときませんから!」
捨て台詞を吐いて病院を後にしたあたし。
クソ親父〜! あんなのに頼ったあたしが馬鹿だったわ。
怒りはおさまらず、足を踏み鳴らすようにしてズンズンと道を進む。悔しくて悲しくて涙が溢れていた。こんな気持ちのままじゃ家に帰れない。
怒りに任せてしばらく歩いていたら、トンカツ屋の看板が目に入った。泣きながらも急に空腹を感じああたしは吸い寄せられるように店に入る。
「ご飯大盛り! キャベツお代わり! ビールもください!」
美味しい。
大好きなトンカツをモリモリ食べたら、怒りも治って気持ちが落ち着いてきた。お腹もいっぱいになったせいか気力もみなぎってきた。
大声も出したせいか、スッキリした。
あれ? なんだか元気になってきたみたい。
これなら家に帰ってまた姑と戦える。
不思議だけど、あの医者と一戦交えたせいで元気が出てきた。
え? もしかして荒療治だったのかな?
しかもタダで診ていただいて。さすが名医、感謝します。
《終わり》
お節介マー参上!
小糠雨降る靖国通り。
私の前を歩くおばあさん、なんと傘も刺さずに歩いているではないか!
しかも、両手に重そうな荷物の袋を下げている。
これは手を差し伸べねばなりますまい。
「よかったら一緒に傘に入りましょう! どちらまで行かれるのですか?」
「あらあら、すみませんねぇ。でも大丈夫ですよ。すぐそこの地下鉄の駅まで行けば雨に濡れませんから。あいすみません」
「とんでもない、ではすぐそこの駅まで傘に入っていきましょう。体を濡らしたら風邪を引いてしまいますよ」
半ば強引におばあさんの体を傘の下に入れ込んだ。
すぐそこ、といってもおばあさんの足では後2、3分はかかるだろう。
おばあさんを駅まで無事に送り出し、踵を返す。
さて、他に困っている人はないか!?
私はお節介マー。
世の中で、助けを求めているわけではないけど困ってそうな人を見つけたらお節介するのを使命としているそこらへんの者だ。お節介マーになるのに資格も資本金もいらない。微々たる勇気があればいい。
おっと、困っている人ではないがちょっと声をかけたほうが良さげな人発見!
キャラクターもののTシャツの下にジーンズ、スニーカーを履いた小柄な女性。その背中にはブランドもののリュックを背負っている。
その背中のリュックの口があんぐりと開いているではないか。
化粧ポーチやら、ノート、ハンカチ……などなど、どうぞご自由に! とでもいいたげに顔見せしている。取られなくてもそのうちにリュックからこぼれ落ちてしまいそうだ。
「お姉さん、リュックの口が開いていますよ」
振り向いて自分のリュックの口が大きく開いたままになっているのを見た女性は大慌て。
「あ、すみません。ありがとうございます」と恥ずかしそうに言いながらチャックを閉めた。
さて、私も電車に乗って目的地へ行かなければ。
「……え〜、それではこの件に関して今日のコメンテーターの……」
なんだ? どこかのニュース番組の放送のようだけどなぜそれが地下鉄の車内で聞こえてくるのだ?
「そうですね、この件に関しまして僕が思うのはですね……」
また聞こえてくる。どこからだ?
あたりを見回すと、すぐ目の前の人、の隣に座っている女性から聞こえて来ている。
彼女が持っているスマホから音声が漏れ流れて来ているのだ。
しかし、彼女は耳にイヤホンをはめている。
本人はイヤホンから聞いているつもりで実は音が外に漏れていることに気がついていないのだ。
それにしても、周りの人たちに聞こえていないはずないのになんの反応もない。
うるさいと思っているはずなのに誰も何も言わない。なんで?
トントン、とまず彼女の体を軽く叩く。
不思議そうなして顔を上げた彼女に「スマホから音が漏れているようですよ」と声をかける。
最初はなんのことかわからないようだったが、スマホのイヤホンを差し直して気がついたようだ。恥ずかしそうな顔をして「あ、ありがとうございます。すみませんでした」と声も身体も縮めてお礼を言われた。
そうだよね、言われて気がついた時は恥ずかしいよね。
でも、黙っていられたらもっと恥ずかしいよね。
空いた席に座り、ボーッとしていたら……乗り込んできた外国人男性に目が行った。ほんと、今の日本、外国人が多い。で、その外国人は背が高く足も大きい。
あの靴のサイズはどれくらいなんだろう、と目をやったら、左足の靴紐が解けているのを発見!
これは教えてあげないと危ないではないか。
がしかし、ここで私の弱点が一つ露呈する。
「靴紐が解けていますよ」を、咄嗟に英語で言えない!
早く教えてあげないと次の駅で降りて行ってしまうかもしれない。
そうだスマホの翻訳ソフト使おう!
ああしかし、文字を打ち込むのももどかしい。電車の中で音声入力なんてできない。
え〜と、えっと。
久しぶりに全神経を集中させておつむに血液を流れ込ませる。
くだんの外国人ににっこり微笑んで
「あ〜、ユーアーシューズライン……」
後はアイコンタクトで視線を靴に。
「オー、サンキュー」合点した外国人はにっこり微笑むとしゃがんで靴紐を結び直した。
お節介は時々緊張する。
おっと、見るからにおじいさんという風体の男性が乗ってきた。
車内にあいにく空席はない。ここはやはり譲るべきだろう。
「あの、良かったら座りませんか?」
おじいさん憮然として「けっこう!」と言い放つ。
「あ、でもどうぞ遠慮なく」
「けっこう! と言ってるんです!」
おお、久しぶりに出会った偏屈親父。周りの乗客もちょっと引き気味にこのやり取りを眺めている。はいはい、お節介の押し売りは禁物。こういう人もいると軽く流すに限ります。
「終点〜!」のアナウンス。
車両出口に向かうと、すぐ横のシートに座って眠り込んでいるサラリーマン風の男性が起きてこない。アナウンスでは目が覚めないくらい熟睡しているようだ。疲れているのね。
ほっといても見回りにきた駅員さんが起こしてくれるのだろうけど、通りすがりなのだから起こしてあげようではないか。
「終点ですよ」声をかけて体を揺する。
サラシーマン氏、ハッと目を覚ましてキョロキョロしたと思ったら脱兎の如く電車を飛び降りて消えてしまった。その素早い動きにはびっくりだ。
やれやれ。
さてさて、今日もお節介に明け暮れた一日だった。
おうちに帰って、ビール飲んでお節介魂をチャージしよう。
家に帰りついて肩のリュックを下ろしたら……。
なんと自分のリュックの口が大きくあんぐりと!
リュックの口を開けたままのお節介がリュックの口を開けっ放しの人に注意していたのか!
これぞお節介マー!!
《終わり》
お巡りさんあなたは確かに正しかった
これはまだ折り畳みの携帯電話が主流だった頃の話。
スマホになった今でもそうだけど、あたしは朝の寝起きにスマホの画面をチェックする。
あの日の朝も、目覚めるなりスマホを手に取って「ふんふふん……」と、鼻歌まじりに画面をチェックしていた。
「えっ?」
突然スマホの画面がチカチカと激しく点滅し始めたのだ。
黄色や赤や黒、びっくりマークと髑髏マークやらが交互に表示されたけたたましい警告音まで鳴り出した!
何やらメッセージも表示されているがよく読めない。
なんなんだ、これは! あろうことかどこかのエロサイトが表示されている。
なんでこうなったのか訳はわからないけれどとにかくこの画面をなんとかしなければ、とあちこちキーを押してみるもなんの反応もない。
ただひたすらド派手な点滅と不気味な警告音を発し続けている。携帯がいきなり怪物に変身してしまったみたいだ。
おそらく、寝ぼけ眼で携帯をいじっているうちにどこかの危険なエロサイトにアクセスしてしまったに違いない。
ちょっと冷静に考えたらそこまではわかった。
でもそこまで。だからどうしたらいいのかが全くわからない。変なところをいじって変なところに行ってしまって、変なところから連絡がきて、変な人から脅迫されたり、高額な支払いを請求されたり、変な人から変なことされたりして変になっちゃったりしたらどうしよう!
変な妄想は延々と続いて膨らんでいく。
あたしは一人暮らし。家には相談できる人はいない。
友人に電話をかけて聞こうにもその携帯がこんなことになっている。
パニックだ! どうする、どうする、どうする!
そうだ、交番へ行こう!
なぜだか唐突に交番が思い浮かぶ。そこへ助けを求めに行くことにした。
数日前に交番の前を通りかかった時、若いすらっとしたお巡りさんが立ち番をしていたのだ。彼なら、なんとかしてくれるかもしれない。いや、してもらわなければ。
焦っているはずなのに身だしなみをしっかり整えて、携帯を握っていざ交番へ。
駆け込んだ交番であたしを迎えたのは若くてすらっとしたお巡りさん、じゃなかった。
ずんぐりむっくり、頭髪がずいぶん寂しくなっているけれど全体的にはかなり脂の乗った感じのするお巡りさんだった。多分50代後半。失礼だけどどうみても文明の機器に精通しているとは思えない。そんなおじさんお巡りさんが暇そうに立っている。こんな人に聞いて大丈夫かな……。
と躊躇するあたしを見咎めたお巡りさん。
「どうしました?」
「あ、あの、携帯がいきなりすごい事になっちゃって……。もう、どうしたらいいのかわからなくて。どうやってもこの画面が閉じられなくて、なんか大変な事になっちゃったらどうしようかと怖くなっちゃって。どうしたらいんでしょう?」
とギタギタに点滅して騒いでいる自分の携帯を差し出した。
「どれどれ?」
と、手にすることもなく面倒くさそうにスマホの画面を覗き込むお巡りさん。
しばし画面に見入っている。
「エ、エロサイトなんて開いた覚えはないんですよ。気がついたらこんなことになっちゃってて」
なぜか必要以上の言い訳をしてしまうあたし。
「ふぅん」
いや、ふぅんじゃなくて何かこう、解決策を早く教えて欲しいんだけど。困っている市民を助けるのがあなた達の職務でしょ。
内心やや逆ギレ気味にお巡りさんの助言を待つあたし。やっぱり彼に助けを求めたのは失敗だったか。昨日の若いすらっとしたお巡りさんだったらきっとすぐに解決してくれたんだろうな。あ〜、運が悪いなぁ。
「電源切ればいいんですよ」
「え?」
「だから、ブチって電源切ればいいの」
とあっさり宣った。
「え? ほんとですか? それだけで本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。切ればいいの」
そんなことで大騒ぎするなよ、とでも言いたげな顔だ。
どうも彼の言うことを素直に受け入れられない。本当に大丈夫なんだろうか?
もし彼の言う通りにして後で何かあったら警察に訴えるよ。
そうだ、何かあった時のために彼の名前をしっかり覚えていこう。
と、制服の胸にある名札を食い入るように見つめた。
不安でなかなか踏ん切れないあたしに、早く切れよと言わんばかりの圧力をかけてくる。嫌な感じだ。
「じゃあ、切ります」
と彼の目の前で携帯の電源を切って折り畳む。
これで本当に何かあったら絶対許さない。
「はいはい、じゃあね」
忙しい訳じゃなさそうなのに、いかにも邪魔とばかりに追い払われて家に帰る。
数時間後、恐る恐る携帯を開いて電源を入れてみた。
ごく普通に静かに画面が開かれ、あたしが何かするのをおとなしく待っている。
朝の毒々しい画面も脅迫めいた警告音も聞こえてこない。そんなことありましたっけ?
くらいの平穏なあたしの携帯。
数日経ってもどこからも変な人からの変な連絡や変な脅迫や変な出来事も起こらなかった。
彼の言う通り、電源をプチンと切って正解だったらしい。
おじさんお巡りさん、あなたは正しかった!
見た目で決めつけてごめんなさい。
さすがお巡りさんです。
後日、顛末を友人に話したら鼻で笑われた。
「そんなことで交番行く? 馬鹿じゃないの?」
はいはいあたしは馬鹿です。馬鹿でもいい。とにかくもしまた結婚することがあったら、あたしはパソコンやネットに詳しい人と結婚したい! と言ったら
「その前に、あんたは自分でもうちょっと勉強しようと言う気はないの?」
はい、ありません。
誰よりも君を愛してしまうがな!
ゴ・キ・ブ・リ。
生きている化石とまで言われていて、その出現は今から2億6000万年前と言われている。
現在、全世界に約4,000種、総数にして1兆4,853億匹、日本には236億匹もいらっしゃるのだ。恐ろしいほどの数だ。
平安時代には都乃牟之(つのむし)、江戸時代に油虫と呼ばれるようになり、俳句の夏の季語にさえなっていたらしい。失礼だが、江戸時代の人の風流感覚が理解できない。
ゴキブリと呼ばれるようになったのは明治時代からのようだ。
百科事典に記載されている「御器噛(ごきかぶり)」という呼び名がからきているという説がある。器でさえも噛む……虫。
暖かい地方のゴキブリは大きい。
沖縄のゴキブリもタイで出会ったゴキブリも大きかった。
反対に寒い地方にはゴキブリはいないという。
最近は温暖化の影響もあって全くいないわけではないようだが、北海道にはゴキブリはいないという。北海道で生まれたかったなぁとつくづく思う。
本当なら、生命力の逞しさと、いつでもどこにでも姿を見ることができる親しみやすい生き物として人気があってもいいはずなのだが、ないのだなこれが。なぜ人気がないのか、今さら説明はいらないだろう。
自分にも、ゴキブリとは心温まるいい思い出など一つもない。
小学3年生のあたしと当時幼稚園生だった妹と二人留守番をしていた時のことだ。
水を飲もうとキッチンに入ったら、タイルの目地の隙間から小さなゴキブリが一匹チョロチョロ這い出てくるのを見つけた。
「やっつけなければ!」と、そばに置いてあった殺虫剤を吹きつけた。
ゴキブリは大慌てで出てきたタイルの目地の隙間に逃げ込んだのだ。
逃すものか! と、その目地の隙間に思いっきり殺虫剤を吹きつけたのだ。これでもか、これでもかと吹きつけ、缶が軽くなってきたのを感じてこれで安心とばかりその場を離れた。
数分後、何やらモゾモゾとした嫌な雰囲気を感じてキッチンの方を見に行くと……。
殺虫剤を吹きつけた目地の隙間からゴキブリがゾロゾロ這い出てきているではないか!?
ゴキブリの大行進だ。
殺虫剤を大量に吹きかけたことで、タイルの中に潜んでいたゴキブリたちが苦しくなって出てきたのだ。
あの茶色いテカテカした背中が、何十匹となく調理台や流しを整然と列をなしてリビングに向かって行進してくる。ザッザッザッザッという足音さえ聞こえてきそうだ。
まずい。
ゴキブリたちのリビングへの侵入を許してしまったら大変な事になる。
小学生だったあたしにもその危機感は強く感じた。
なんとかキッチン内でことを収めなければならない。
それにはこのゴキブリたちを退治しなければならない。
ううう〜、気持ち悪い。怖い、でもやらなければやられてしまう〜!
妹にも手伝わせようと振り返ると、すでに戦意喪失して泣きじゃくってばかりで役に立たない。
仕方がない、この姉がなんとかするべしと意を決して殺虫剤とティシュペーパーの箱を手にゴキブリに占拠されたキッチンに一人果敢に飛び込み、泣きべそかきながらゴキブリ退治をしたのだ。
何も知らずに帰宅した母にしがみついて、わんわん泣きながらことの次第を語ったことは今でも忘れられない。この一件は今でもトラウマになっている。
中学生の時、家の中リビングの壁にゴキブリが止まっているのを発見。
早く退治を!
母が殺虫剤を持ち、キッチン闘争の時はピーピー泣いていた妹もテイッシュを手にしてやってきた。
いつ攻撃仕を掛けようかと三人で頃合いを見計らいつつゴキブリを見つめていたら、ゴキブリがいきなり飛び立った。しかもこちらに向かって挑むようにブンッ、と。
「あわわわわわぁ!」
飛ぶことは知っていたけど、まさか本当に! しかもこちらに向かって! なんと不敵な!母、妹、あたし、三人揃ってのけぞってしまい、その隙にまんまと逃げられてしまったこともあった。
高校時代からの家族ぐるみの付き合いをしている友人がいた。
友人宅で夕食をご馳走になりおしゃべりに花を咲かせていたら、なぜか話題がゴキブリのことになったのだ。
「そういえばさ、この間お風呂から出てきて体拭いていたら目の前をすんごい大きなゴキブリが歩いていたのよ」と友人。
なんかすごいシチュエーションでゴキブリと遭遇だな。
「なんと!? で、どうしたの? 風呂上がりってことは裸だったんでしょ?」
「そうなのよ。夫も出かけていて一人だったし、困ったなと思ってさ」
「だよね〜! 想像するだけで怖い! 逃したら逃したで、どこかにいると思うと気持ち悪いしね」
「そうなのよ。だから、バンって足で踏み潰した」
え? え? え〜?
「足って……。だって裸で、素足でしょ? え? 素足で踏み潰したの? え〜?」
「まね、ちょっと気持ち悪かったけど。でも、足なら洗えば綺麗になるじゃない」
いやいやいや、恐れ入りやの鬼子母神!
この時ほど彼女を尊敬して、こんな彼女と一緒に暮らしている彼女の夫がとてつもなく羨ましいと思ったことはない。
ゴキブリを退治できる人。
これはあたしの結婚の必須条件だ。
《終わり》
人間洗濯機
失恋しました。
一つ年上の先輩に。
ウェーブのかかった黒髪、濃くて太い眉毛、マッチ棒が乗りそうなほど長いまつ毛、そして憂いを含んだ美しい瞳。
長い手足、引き締まった小さなお尻、広い肩幅。
見てくれだけではありません。
有名私立大学法学部に在籍し、サークルでは班長を勤め、その統率力は誰もが認めるほどでした。偉ぶることもなく会話はユーモアに溢れ、行動は思いやり深く、時に優しく厳しく、時にエッチに……先輩は男女を問わず好かれいてました。
本当にいるのかそんな男。
恋は盲目です。
とにかく先輩に恋したあたしは無我夢中、猪突猛進。
寝ても覚めても先輩のことしか考えていませんでした。
先輩会いたさに授業をサボってサークル部屋に通い詰め、サークル活動、飲み会にはパーフェクトに参加。隙あらば先輩の隣に座るべく、他の先輩や友人との会話はほとんど上の空。
あたしが小脇に抱えていた新田次郎の本を見つけた先輩に
「あ、これ読んでみたかったんだよな。次、貸してくれる?」
なんて言われて……、買ったばかりで一文字も読んでないのに渡してしまいました。
もう、胸キュンキュンです。
先輩へのこの思いを一人胸の内に収めているのが苦しくて、意を決して告白することにしました。と言えば聞こえはいいですが、ただ単に黙っていられないだけ。おまけに振られるなんて微塵も考えていないという大馬鹿思考。
「俺もお前が好きだ!」と言われるシーンが頭を駆け巡る中、告白しました……あっさり振られました。あまりに呆気なく恋は終了。
泣きました。大いに泣きました。
こんなに恋しいのに、あたしの思いは叶えられない、そして先輩は誰か他の人を好きになってしまうのだ。もう先輩には触れられない、一緒に居られない。
そう思うと辛くてサークルも辞めてしまおうかとさえ考えるのでした。
日々が辛く、誰にも会いたくない、そう、この日常から逃げ出したい。
そしてあたしは京都へ傷心旅行に出掛けました。
恋に敗れた女はなぜ京都に惹かれるのでしょうか? あれ? あたしだけ?
学生の身でお金もなかったので往復夜行バスの日帰り。
なんか、ケチくさい傷心旅行ですが。致し方ない。
間の悪いことに、時は修学旅行シーズン。
どこへ行っても制服姿の学生たちで溢れかえっています。
京都大原三千院も御多分にもれず。
「こっちこっち〜!」
「ここ、いいじゃん! ここで撮って! あ、美香ちゃんも早くおいでよ〜!」
などなどの黄色い声の中に、恋に敗れた女が一人……。
美味しいもの食べて英気を養おうかと、湯豆腐店に。
「ちょう、美味しいじゃん!」
「なにこれぇ、めっちゃ熱いんだけど〜!」
黙って食えんのか!
恋の傷はそんなに簡単に癒やされるものではないのだ。
今しばらく先輩を失った悲しみに浸りながら過ごすしかないと覚悟を決めて、東京へ帰ることにしました。
が、夜行バスの発車時間までまだ2時間近くあります。
どこかにカフェとかないかなぁ、恋に敗れた女が京都の夜にしっとりお茶できるお店ないかなぁ、と周りを見回していたら
「人間洗濯機」
という看板が目に入りました。
それはお風呂屋さんの看板でした。
看板の中央には風呂屋さんの屋号がデカデカと書かれ、横に負けじと大きく「人間洗濯機」という文字、その隣に小さく丸い湯船のような絵が描かれているのです。
その看板に吸い寄せられるようにフラフラとお風呂屋さんに入って行きました。
裸になり、さて、人間洗濯機なるものは一体どういうものなのか大いなる期待と恐れとともに女湯に足を踏み入れる……と、そこはごく普通のお風呂でした。
洗い場があって、正面には広い湯船。背後には京都の街並みの絵が描かれています。
あれ?
人間洗濯機は一体どこにあるのだろう?
頭から突っ込まれて、石鹸ぶっかけられてグルングルンかき回されて、最後には身体中の水分を搾り取られるほど脱水かけられてしまうような、人間洗濯機はどこ?
ぐるりとあたりを見回すと、ありました。
大きな湯船の隣にひっそりと、小さな丸いタイル張りの湯船が。
人一人入ったらいっぱいという、確かに洗濯機みたいに丸い湯船が。
そして、湯船の中ではお湯がグワラングワラン、なんか文句あっか!
という感じで回っています。
これ? これ?
いやちょっと違う? なんか騙された?
独り言を呟きながら入りました。
お湯は力強く旋回していて、気を入れて湯船に捕まっていないと回されそうです。
あたしを押し流そうとするお湯と回されまいとするあたしとの戦い。
お湯に浸かってゆっくり失恋の傷を癒す、とか感傷にひたるなんて状況とはほど遠い……。むしろ荒ぶるお湯との真剣勝負! みたいな。
「こんなものに回されるほど柔じゃないんだから!」と息巻くあたし。
ただ単にお湯が回っている湯船に、その流れに逆らうように浸かっているだけなのに、そのうちなんだかおかしくなってきて笑えてきました。
そうか、人間洗濯機かぁ。
空いていたこともあって、たっぷりと人間洗濯機に浸かって失恋の痛手も洗い流されました。
身も心もさっぱりしたあたしは意気揚々と夜行バスに乗り込み
「そういえば、3年生のあの先輩かっこよかったなぁ。彼女いるのかな」
なんて早くも次なる恋を心に思い描いて東京へと向かったのです。
《終わり》
書けない……今日は愚痴
2月から、ライティング講座を受講している。
文章の書き方を学び直すために。
以前は山岳雑誌に書いたりもした。本も出した。
そして書かなくなってうん10年。
「もう書かないんですか?」ある人の一言に触発されて学び直そうと思ったのだ。
書くことは好きだし、そこそこ書けるとは持っている。
でも、肝心の自分が書きたい文章が書けないというか、何をどう書いたら良いのかがわからない。
この講座では、毎週2000文字の文章提出が課題になっている。お題は自由。
講師達の講評を受け、合格となれば講座のウェブサイトに掲載される。
これまで数回合格をもらって掲載された。正直嬉しい。
が、同じく合格となり掲載された人の文章を読むとみんな上手い。
自分には書けない文章、文体、内容。
人の真似をするつもりはないけれど、どうしたらあんなふうに書けるのだろうと考えてしまう。そして、自分の未熟さ? 力の無さ? に落ち込むのだ。
人をもっと感動させるような文章を書きたいと思いながらそれができない。
ちょっと軽め、面白おかしい文章ばっかり書いてる。
違う、こうじゃあない!
これがあたしの文章スタイル、と割り切って行くしかないのか。
とりあえず、今週も課題提出のに追われている。
愚痴っている暇はない。
難局を乗り越え世界を繋げた魔法の言葉それは……
「コップンカ〜!」
タイ語の挨拶言葉「コンニチハ」である。
2月の3日、タイに来た。
何しに来た、クライミングしに来た。
タイの首都バンコクから南へ約750kmに位置するライレイは、タイの秘境ビーチとしても知られるリゾート地であり、コルネの発達した石灰岩の岩峰群が聳え立つクライミングエリアとしても有名。
日本人だけでなく、多くの外国人クライマーで賑わうのだ。
私たちも、日本の寒さから逃れるようにこの地へやって来た。
眩しさマックスの青い空と白い砂浜!
日本の皆さんごめんなさいね、と言いたくなるような暑さ。
タンクトップにショートパンツ姿でクライミングを楽しみ、終わればビーチでビールをあおり、疲れた体をタイマッサージで癒す。
夜はビーチ沿いの店に繰り出してタイ料理を満喫する。
トムヤムクンだ、カオマンガイだ、パッタイだ、マンゴージュースだ……。
日本の皆さんほんとごめんなさいね。
さて、タイといえばタイ語、なのは当たり前。
でもね、ほとんど英語で話は通じてしまうのだ。
ボート漕ぎのおっちゃんも、ホテルのボーイさんも、マッサージ店のちょいババお姉ちゃんも、そこら辺走り回ってる子供たちも、みんな英語が話せるのだ。
だから、タイ語なんてできなくても英語さえ話せれば全然問題ない。
英語さえ話せれば。
その英語が全く話せないのが私。
自慢じゃないけど、語学は全くだめ。
海外に行けば語学の大切さを痛感するけれど、帰国すれば熱は冷める。
言葉なんてできなくたってどうにかなるし、身振り手振りのジェスチャーでお互いの意思なんて通じるでしょ!
と、大見栄きってる割に、英語の話せる友人に小判鮫のようにくっついて「ハハァン」とか言って、わかった顔で曖昧に頷いているだけ。
それでもマッサージ店では、覚えたてのタイ語「サバァイ!」(気持ちいい!)を連発してリゾート生活を満喫していた。
そんな楽しいタイ生活だが、注意しなければいけないことがある。
水質の悪さだ。
タイでは生水を飲んではいけない、これ常識。
英語はできないけれど、それくらいはわかる。
だから気をつけていた……はずだったのだけど。
暑さで頭がボケたのか、浮かれ生活で油断してしまったのか、どうやらどこかで生水を口にしてしまったらしい。
それは突然襲ってきた。
激しい腹痛と、下痢。
冷や汗かきながらベッドとトイレの往復すること数十回。
引き絞られるようなお腹の痛みで涙が出てくる。
悪いことに、頼みの綱の友人は出掛けてしまった。
今夜は、現地で知り合ったイケメンクライマーとレストランで食事の約束をしているのだ。
確か、B B Qを食べる予定なのにこれじゃあ行かれない!
なんとかせねば!
この下痢を止めなければ!
異国の地でのイケメンクライマーとのアバンチュールが……。
熱でも出てきたのか、妄想が汗とともにあふれ出る。
下痢止めさえあればなんとかなる!
が、あいにく下痢止めは持ってこなかった。
友人はまだ帰ってこない。
どうする、どうする佳代子!
そうだ薬局へ行こう!
ホテルの近くに薬局があったことを思い出した。
財布を持って、ビーチサンダル突っかけて、髪振り乱して、痛みに耐える鬼の形相で薬局に駆けつけた私。
「下痢止めください!」
と叫ぼうとして固まった。
え……と。
下痢止め、って英語でなんて言うんだっけ?
お腹痛いって、なんて言うの?
薬ちょうだい、は?
具合が悪い、は?
なんて言ったらいいの〜!
言葉が全く出てこない。
とにかくなんとかこの状況をお姉さんに分かってもらわないと、B B Q食べられない。
「あの、お腹、お腹ね、痛いの」
「でね、下痢、下痢してるのよ。わかる?」
「だからね、下痢止め、欲しいの。下痢止め、ください!」
お姉さんは困ったような顔をして立ち尽くしている。
そりゃあ通じないわ。全部日本語だもの。
お腹は痛いし、漏れそうだし……。
「神様、英語なんてできなくたってどうにかなる、なんて言ってた私をお許しください。
日本に帰ったら真面目に英語を勉強します。だからお願い、お姉さんに日本語通じて!」
と、支離滅裂な神頼みをしてる時、ふと閃いた!
そう、これよ!
「お姉さん、見て! お腹シクシク、お尻シャーシャー!」
と日本語で言いながら、お腹を指差して「シクシク」と繰り返して顔を顰める。
次に腰を曲げてお尻を後ろに突き出し、そのお尻に拳を作った右手の甲を当てて「シャーシャー」という言葉とともに指をパッパッと開いて見せたのだ。
必死の形相で動作を繰り返す私を見ていたお姉さん、大きく頷くと「オーケー、オーケー!」と笑いながら後ろの棚から薬を取り出してきた。
それはまさしく私が欲しかったもの、下痢止め!
そう、これですよ!
なんとよく効きそうな下痢止めではないか!
やっぱりジャスチャーは万国共通。
いざとなったら言葉なんか通じなくたって、ジェスチャーでなんとかなる、意思は通じる。
神様、とりあえず英語は後で。まずはB B Q行ってきます。
イケメンクライマーと肉頬張りながら「シクシク」「シャーシャー」。
さぞかしロマンチックなディナーになることだろう。